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浮世絵美人画の最高峰、喜多川歌麿とは?

  • 2020年1月12日
  • 2020年6月29日
  • 浮世絵
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喜多川歌麿「ぽっぴんを吹く娘(婦人相学十躰)」

浮世絵といえば美人画を思い起こす人も多いだろう。その浮世絵美人画の中でもひときわ大きな存在感を示すのが喜多川歌麿だ。写楽、北斎、広重と並ぶ人気絵師の一人であり、歌麿はいかにして美人画を極めていったのか。その実像に迫ってみたい。

蔦屋重三郎との出会いにより浮世絵の第一歩を歩み出す

歌麿の生年は不明だが、本姓は北川、幼名は勇助又は一太郎といった。出生地は江戸のほか、川越、京都など諸説ある。幼い頃に狩野派の町絵師、鳥山石燕(せきえん)に絵の手ほどきを受け画業をスタートさせる。版元の蔦屋重三郎との出会いにより1780年代に挿絵などを発表していく。

遊女を描き「北楼の絵師」と呼ばれる

喜多川歌麿「丑ノ刻(青楼十二時)」

初期には鳥居清長風の美人画、いわゆる八頭身美人を描き人気を博す。とりわけ歌麿は遊里の女性たちを生き生きと描いた。江戸で唯一の公の認可を受けた遊里、吉原は江戸の北側にあったため「北楼」と呼ばれ、歌麿もそこで美人画の腕を磨いた。歌麿が「北楼の絵師」と呼ばれるゆえんである。「青楼十二時」は吉原の1日を2時間ごとに描いた揃いもので、遊女の内面までも描き出そうとする新たな美人画の創造を追求する。

美人大首絵を描き人気を不動のものとする

喜多川歌麿「当時三美人」

また、歌麿は遊女だけではなく、町の評判娘を描きその人気を不動のものとする。歌麿の少年時代には、お仙やお藤などの評判娘がおり、彼女たちは庶民が気軽に立ち寄れるお店で働いていた。そんな彼女らをユニークに描き浮世絵界に旋風を起こしたのが鈴木春信で、歌麿は春信に私淑していたのだ。そして寛政期、それまで役者絵にしか描かれてこなかった大首絵を美人画にも応用し、歌麿大首絵とも呼べる生き生きとした美人画を発表し、人気絵師の地位を不動のものとする。

細密描写も評価が高い

喜多川歌麿「画本虫撰」

意外かもしれないが、歌麿は緻密な描写も得意とした。蔦屋重三郎の元で出版された「画本虫撰」や「潮干のつと」などの狂歌絵本はまさに博物図といった趣でその細かさに驚かされる。その緻密さは美人画の描写、特に髪の毛一本一本まで丁寧に描く姿勢に表れており、美人を描く際にもそれぞれの顔の特徴をよく捉えバランスよく描き分けるなど観察眼も人一倍優れている。

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