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雪舟とは?日本水墨画の最高峰を徹底解説。

  • 2020年1月20日
  • 2021年4月3日
  • 日本画
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雪舟「自画像」出典 Wikipedia

あまり美術に関心のない人でも「雪舟」という名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。いや、雪舟という名前は聞いたことがなくても「秋冬山水図」や「天橋立図」「慧可断臂図(えかだんぴず)」などは、教科書やメディアで一度は目にしたことがあると思います。

幼少期から絵の才能を発揮した雪舟は、有名な「涙のネズミ」や本場中国に渡って絵の修行をするなど、伝説的なエピソードに事欠きません。そして狩野派や長谷川等伯など、日本美術界のスーパースターたちが雪舟に憧れを抱いてきました。

日本の絵師の中では6点の作品が国宝に選ばれるなど、言わずと知れた日本水墨画の最高峰です。そんな雪舟の凄さの秘密を徹底解説します。

雪舟の生い立ちと有名な逸話

室町時代に活躍した水墨画家、雪舟はどんな幼少期を過ごしたのでしょうか。

雪舟等楊は1420年、備中(現在の岡山県)に生まれ、幼い頃から出家して京都の相国寺で禅の修行と共に絵も習いました。室町時代は学問や文芸は禅寺が担い、雪舟も相国寺という一流のお寺で、一流の師のもと禅と絵の修行に励みました。

雪舟、涙でネズミを描く

雪舟には幼少期の有名な逸話が残っています。それは相国寺に入る前の宝福寺で起こった「涙でネズミを描く」というエピソードです。少し長いですがその内容ご紹介します。

禅僧になるため、幼くしてこの寺に入った少年(のちの雪舟)は、禅の修行はそっちのけで、好きな絵ばかり描いて日々を過ごしていました。

それに腹を立てた住職は、ある朝、少年を本堂の柱に縛りつけてしまうのですが、少し可哀想に思い、夕方になって、本堂を覗いてみることにしました。すると、少年の足もとで一匹の大きな鼠(ねずみ)が動き回っているではありませんか。

少年が噛まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしましたが、不思議なことに鼠はいっこうに動く気配がありません。それもそのはず、その鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのです。

はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿がまるで本物のように生き生きととらえられていたからにほかなりません。それ以後、住職は少年が絵を描くのをいましめることはけっしてありませんでした。

「雪舟、涙で鼠を描く」(京都国立博物館)詳しくはこちら

これは江戸時代初期に狩野永納(かのうえいのう)という画家が書いた「本朝画史(ほんちょうがし)」という本に登場する雪舟のエピソードで、昔の国語の教科書にも載っていたのでご存知の方も多いかと思います。

本当に足で描いたかは真偽のほどがありますが、その後の雪舟の活躍から生まれたエピソードといえます。

「雪舟」と「拙宗」2人のセッシュウ?

「拙宗等楊」という絵師がいた

美術史には「雪舟」は2人いたという説があります。正確には「雪舟等楊」と「拙宗等楊」という別の絵師がそれぞれ存在していたというものです。文化庁のサイトでは重要文化財の「紙本墨画淡彩山水図」は「拙宗筆」となっていますので、その解説を一部ご紹介します。

拙宗等揚は、『本朝画史』(延宝六年序)に初めて記録される画家である。狩野探幽が古画を縮模した「探幽縮図」にも拙宗等揚の画が含まれており、江戸時代初期にはその存在が認められていたことがわかる。(中略)

また、雪舟が大内氏の援助を受け、周防で活躍したのは周知のことであり、少なくとも拙宗と雪舟が相近い関係にあることが了解される。

「国宝・重要文化財(美術品)/紙本墨画淡彩山水図」(文化庁・国指定文化財等データベース)詳しくはこちら

「雪舟」と「拙宗」が同一人物だという説も取り上げながらも、結論には至っていないため「拙宗筆」と表記しているのだそうです。

「雪舟」と「拙宗」は同一人物説

一方、「雪舟」という画号は、京都から山口に移った後に命名したもので、それまでは相国寺でもらった「拙宗」を名乗っていたという主張もあります。現在の美術史ではこちらの方が定説となりつつあります。

「拙宗」時代は日本水墨画の祖である如拙や師の周文の影響を受けていましたが、瀟洒で洗練された様式が合わなかったのか、京都を去り、中国地方の有力守護大名である山口の大内氏のもとで絵を制作するようになります。

そこで中国・元時代の高僧である楚石梵琦(そせきぼんき)が書いた「雪舟」という二字の墨跡を得て自ら改号したといいます。龍崗真圭禅僧が解説するところによると「雪舟」には次のような意味があるといいます。

龍崗は、「雪」は純浄不塵なる心の状態、「舟」は恒動亦静なる心の働きであると説き、それらを得た雪舟の画を「心画」であると述べる。

「拙宗 等揚(略歴・解説)」岡山県立美術館 所蔵作品検索システム 詳しくはこちら

中国で本場の絵を学ぶ

雪舟の転機となったのは48歳の頃、遣明船で明(中国)へ渡ったことです。画家として初めて中国へ渡った雪舟は、そこで本場の水墨画を学びました。約3年の旅の中で名山や河川など景勝地で写生を行い、中国の雄大な自然から創作意欲を得ました。

北京滞在中には礼部院の中堂に壁画を頼まれます。これは雪舟が描いた「四季山水図」(現東京国立博物館蔵)を見た宮廷の人がその腕前に驚いて依頼したもので、その当時から雪舟は認められていたのです。

雪舟「四季山水図」出典:Wikipedia

浙派の画風から自らのスタイルを確立

雪舟にとって中国での大きな収穫となったのは「浙派」の絵を直接見たことだといわれます。浙派の様式は粗放な筆遣いで、高く険しい山々を峻厳に描くもので、そのスタイルは明王朝の勇壮な趣味と健剛な気質に合っていました。浙派の祖とされる「戴進」はダイナミックで躍動感を持った山水画を描いています。

そのような浙派の画風に共感を抱いたのは、他ならぬ雪舟でした。もともと京都で修行していた時も画壇で主流となっていた宋・元様式が合わなかった雪舟にとって浙派は正に「自分様式が本場、中国にある」と感じたのではないでしょうか。

浙派と雪舟の接点に関して専門家は4つの点を挙げていて、特に3つ目が重要なので引用します。

第三に、筆使いが豪放で、墨の色で余すところなく表現している。雪舟は粗放な筆使いに長じており、筆致に雄々しい力強さがあり、一気呵成に描く。これは、浙派の典型的な技法である。

「雪舟入明と「浙派」美術の東伝」安琪:上海交通大学人文学院 副教授 詳しくはこちら

明の画壇に高名の師なし

中国の宮廷で栄誉を受けた雪舟でしたが、意外にもその当時の画壇からは得られるものがなく「明の画壇に高名の師なし」と失望したといいます。

長らく南宋の巨匠たちの絵を間近に見てきた雪舟にとって当時の中国北方で流行していた画風は、宋元様式を超えるものではないと認識していました。

「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した。

「雪舟」Wikipedia 詳しくはこちら

雪舟にとって明での留学の最大のポイントは、自身の大胆な筆致や豪放なスタイルを確信させ、また中国大陸の雄大な自然から「風景から学ぶ」と悟ったことにあります。それからは風景画の傑作を次々に発表していきます。

帰国後に雪舟の才能は開花する

中国から帰国した雪舟は、九州に数年間滞在し、ふたたび山口に戻ります。その50〜60代の時期は、雪舟の芸術における大きな展開期といえます。

柔らかな筆致のやまと絵風の作品や肖像画、実景をもとにしたスケッチなど、水墨画の本場である中国で受けた刺激をどのように作品に盛り込むか模索を続けていきます。 

70歳からの黄金期

そして雪舟は、70歳から晩年にかけて黄金期を迎えます。国宝に指定されている6点の作品は全て60代以降に描かれていますし、老いてなおそのエネルギーは衰えることを知りません。力強い筆線や墨のコントラストなど、年をとるにつれその個性を爆発させていきます。

雪舟の代表作

秋冬山水図

雪舟「冬景山水図(秋冬山水図)」出典:Wikipedia

「秋冬山水図」は雪舟の最も有名な作品の一つで、特に「冬景山水図」の中央にくっきりと引かれたアウトラインは断崖のようでもあり、時空を切り裂く一太刀のようでもあります。

この輪郭線からは雪舟の水墨画に対する気概が感じられます。周文や如拙、南宋の画家から大きな影響を受け、それらを咀嚼した上で独自の構図や筆触に落とし込んでいます。

慧可断臂図

雪舟「慧可断臂図」出典:Wikipedia

「慧可断臂図(えかだんぴず)」は禅宗の創始者、達磨が座禅を組んでいるところへ慧可が参禅を請いに来たが断られるという場面を描いています。慧可は自らの腕を切り落としてその決意を示し、結果参禅を許されたというシリアスな場面です。

背後に広がる壁面の異様な造形や、達磨の鋭い眼差し、衣紋の緊張感のある筆線など、息の詰まる重厚な雰囲気です。一方で切り落とされた慧可の腕の切断部には、赤く細い線で血が表現され、目尻や唇も微かに紅潮するなど細部まで繊細に描写されています。

天橋立図

雪舟「天橋立図」出典:Wikipedia

「天橋立図」では日本三景の一つ、天橋立を俯瞰的な構図で描いています。80歳を過ぎても現地を訪れて実景を描いたというそのバイタリティにも脱帽しますしが、誰も目にしたことのない俯瞰構図の天橋立は、雪舟の頭の中のイメージそのものといえます。

中国に渡って大自然を写生をした経験をもとに、宋・元画のエッセンスを融合した雪舟の傑作です。

破墨山水図

雪舟「破墨山水図」出典:Wikipedia

「破墨山水図」では実景や風景という概念を超え、もはや抽象画の域に達しています。「破墨」とは墨の濃淡で立体感を表すこと指し、淡墨で要所を描き、乾かないうちに濃墨を点じる技法です。

余白が画面いっぱいに広がる引き算の構図からは何事にも左右されない雪舟の画境が表れています。

後世に与えた影響

狩野派により神格化される

雪舟の死後、江戸時代に繁栄した狩野派は雪舟を師と仰ぎ、自らの流派のルーツとしました。狩野派といえば、絵手本や下書きを模写することでその技術の伝承を行なってきた流派ですが、雪舟の絵もたくさん模写しています。

狩野派が雪舟を神格化したことにより多くの諸大名は我先にと雪舟の作品を求めたといいます。

雲谷派への伝承

山口を中心に興った雲谷派は、桃山時代から江戸時代初期に活躍し、雲谷等顔を始め、雲谷等益、雲谷等爾らは雪舟を師と仰ぎ「雪舟正系」を自称してその画風を継承していきました。

代々の雲谷派の画家たちは、等顔が拝領した「四季山水図巻」をたえず参照することによって、それぞれの作風を作り上げました。さらに、雪舟が晩年に多く描いた草体(墨の面を主とした画風)の山水図もよく描いています。

「『雪舟への旅展』第七章 雪舟を継ぐ者たち」山口県立美術館 詳しくはこちら

長谷川等伯への影響

長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で狩野永徳と並び称される日本美術界の巨人です。地方から上洛して諸派の画風を学び、豊臣秀吉ら時の権力者に重用され、当時の画壇のトップに登り詰めました。

等伯は地方都市、能登の出身であるなど、同じく地方出身の雪舟と共通する部分があります。晩年は落款に「雪舟五代」と記すなど、雪舟につながる家系であると主張しました。しかし、これは当時評価のあった雪舟の名前を冠することで狩野派に対抗するためとされ、大寺院からの制作を狙ったものとされています。


雪舟は間違いなく日本で最も偉大な絵師の一人であり、伝説的なエピソードに溢れています。中国に渡って自身のスタイルを確立してからは記念碑的な作品を次々と発表しています。亡くなった後も神格化され多くの絵師たちに影響を与え、現在でもその人気は衰えていません。


【参考文献】
もっと知りたい雪舟 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
雪舟決定版 生誕六〇〇年 (別冊太陽 日本のこころ)
雪舟 (新潮日本美術文庫)
雪舟はどう語られてきたか (平凡社ライブラリー)

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