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日本美術界のラファエロ、天才菱田春草の偉業とは?

  • 2020年1月28日
  • 2020年6月29日
  • 日本画
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西洋美術ではラファエロは夭逝の天才画家として数々の傑作を残したことで知られているが、日本の美術界でも若くして亡くなった画家がいる。菱田春草その人だ。春草の画業とは?また、後世に与えた影響とは?今回は春草の偉業を追ってみたいと思う。

春草は東京美術学校にて学ぶ

菱田春草

菱田春草、本名三男治(みおじ)は1874年、長野県伊那郡飯田町(現在の長野県飯田市)に生まれる。東京美術学校(現東京藝術大学)に進み、狩野派の流れをくむ橋下雅邦に学ぶ。

日本画の巨匠、横山大観や下村観山は先輩にあたり、校長の岡倉天心のもと研鑽に励み、美術学校の講師となる。1898年に天心がスキャンダルによって野に下ると大観らと共に職を辞し、在野の美術団体である「日本美術院」に参加する。

輪郭線を排した描き方

そこで大観らと取り組んだのが「没線(もっせん)描法」と呼ばれる輪郭線を用いない描法で、これは西洋の絵画に刺激を受けた全く新しい表現法だった。

輪郭線を排して墨や絵の具の色面だけで形を表し、空気や光を表現しようとしたのだ。

新しい描法は「朦朧体」と非難される

菱田春草「菊慈童」

「菊慈童」はそんな試行錯誤の跡が見られる作品である。「菊慈童」は、罪を犯して辺境の地に流された少年が、菊の霊力によって不老不死を得、子供の姿をとどめたという伝説にもとづく。

春草は紅葉に満ちた森林に様々な色を淡く配し、人里離れた山奥に童子が佇む静寂で深淵な世界を描いた。

しかし、従来の描き方とは異なる彼らの画は世間から「朦朧体(もうろうたい)」と激しく批判されてしまう。

目の病と傑作の誕生

1906年、経営難に陥った日本美術院が茨城県の五浦(いずら)に移転し、春草も大観、観山、木村武山らと転居し共に研究に励んだ。しかし、目の病のため2年後に東京に戻ることを余儀なくされてしまう。

「落葉」

菱田春草「落葉」

なんとか失明は免れたが、病気療養は続いた。そんな中描かれたのが、畢生の大作「落葉」である。東京代々木の雑木林を題材にしたこの画で、春草は日本の伝統的な線描、色の使い方と、西洋画にみられる奥行きや空間表現を融合し、装飾的で近代的感覚の新しい表現を示した。この画は第3回文展に出品して最高賞を受賞する。

その2年後、春草はさらなる期待をされながら、腎臓疾患のため37歳の若さでその生涯を閉じた。

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