江戸琳派の祖で「夏秋草図屏風」の代表作で知られる酒井抱一は、尾形光琳に私淑し、その光琳は俵屋宗達に私淑していた。「風神雷神図屏風」といえば琳派の創始者、俵屋宗達によるものが有名だが、続く尾形光琳はその画を模写している。そして酒井抱一が描いた「夏秋草図屏風」はその光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれており、そこで抱一は何とも粋な演出を試みているのだ。ここではその魅力に迫ってみたいと思う。
小さい頃より文化に親しむ
酒井抱一は姫路藩主酒井家の次男として江戸に生まれる。酒井家は代々、文雅に造詣が深く兄の忠以も茶人、俳人として知られる。若い頃より狩野派を学び、宋紫石や沈南蘋(しんなんびん)からの影響も見られる。浮世絵師の歌川豊春に師事し、熱心に模写なども行っている。
出家し趣味の世界に没頭
37歳で武士の身分を捨てて出家し、その後は俳諧や能楽など趣味の世界に没頭していく。出家の翌年から「老子」の一節「是を以て聖人は一を抱きて天下の式となる」をもとに「抱一」の号を使うようになる。
尾形光琳への傾倒
尾形光琳への傾倒が強まっていくのは40代半ばからで、光琳の実績や落款、略歴などを研究していく。そして宗達から始まり光琳へと続く流派を「緒方流(尾形流)」定めた。
光琳没後、100年に当たる1815年には光琳百回忌の法会を開き、光琳の遺墨展を開催する。それ以後、琳派の装飾的な画風にさらに円山・四条派や土佐派などの技法を積極的に取り入れ、独自の洒脱で繊細な作風を確立。これにより江戸琳派の創始者となった。
「夏秋草図屏風」
1821年に描いた「夏秋草図屏風」では、銀地の背景の右隻に夕立に打たれる夏の草花を描き、左隻には野分に吹き上げられる秋の草花を配し、夏から秋へと変わる季節の変わり目を表現。
右に白百合、仙翁花、女郎花などの夏の草花、左に葛、藤袴、薄などの秋の草花をと右左隻で対比させていたり、夕立や野分などで左右になびく草花を配置するなど異なる要素を巧みに対比させている。
この対比の妙はこの画の成立過程にも関係がある。現在は保存の観点から切り離されてしまったが、もともとこの画の裏には尾形光琳の「風神雷神図屏風」が描かれていて、抱一にその裏に画を描くよう依頼が舞い込んできたのだ
光琳は宗達に私淑し「風神雷神図屏風」を描いたことは周知の通りだが、抱一はその光琳の「風神雷神図」に倣って「夏秋草図」を描いたのだ。
抱一独特の対比の妙
抱一の演出では、表の金地に対して渋めの銀地をチョイス。そして風神の裏には野分にたなびく秋草、雷神の裏には夕立に打たれる夏草をそれぞれ配置している。
屏風の裏と表、金と銀、天と地、神と自然という対比を盛りこみつつ、軽妙洒脱な画風はそのままに、この傑作は生まれた。
江戸琳派の祖と呼ばれる抱一。自然を愛し、軽妙洒脱の俳諧趣味で鈴木其一、池田孤邨など多くの門人も排出した。
抱一は江戸絵画にまた一つ独自の彩りを加えたといえる。