17世紀のオランダに生まれレンブラントはバロック期を代表する画家で、集団肖像画や光と闇の明暗表現で現在でもその人気は衰えない。しかし、そんなレンブラントには他の画家にはみられない壮絶な転落人生があった。
富も人気も絶頂だったレンブラントはいかにしてどん底に落ちたのか。そして、その状況であるがゆえに到達した、全く新しい絵画世界とは?
レンブラントの壮絶人生を追ってみた。
順風過ぎる若かりし頃
レンブラントは1606年、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)に生まれた。当時のオランダは東インド会社を通じて世界中の富が集まる黄金時代だった。
レンブラントは親の反対を押し切って画家となり、カラヴァジェスキ(カラヴァッジョを信奉する画家)のもとで修行を積む。
25歳で父親が亡くなったのを機にアムステルダムへ進出。その頃から富裕層の顧客を持っていたという。
28歳でサスキアと結婚。独立して工房を構えるまでになる。
集団肖像画で頭角を現す
レンブラントが得意としたのは明暗対比を使った歴史画と集団肖像画だった。この集団肖像画でレンブラントは大胆な手法を編み出す。
それまでの肖像画では人物を整列に配置して描くことが多かったが、レンブラントの肖像画では人物はまるでスナップショットを撮ったかのような自然な動きをしている。
その上で、人物にスポットライトを当てて画面の中で目立たせ、画面に臨場感と劇場感を与えたのだ。
「テュルプ博士の解剖学講義」では博士の講義を聞く外科医の面々を劇的な構図と明暗対比で表現。以後、集団肖像画の依頼が殺到していく。
不朽の名作「夜警」
その集団肖像画の最高傑作とされるのが、36歳の時に描いた「夜警」だ。火縄銃組合自警団の集団肖像画であるが、縦3m63cm、横4m38cmの大作で、作られた当時はこれよりもっと大きく、飾られていたホールの壁に収まりきらないという理由で周りがカットされた。
しかし、この絵では得意の明暗対比が行き過ぎたため、後列の何人かはほとんど顔が見えなくなっている。最前列の隊長と副隊長は良いとしても、他のメンバーは皆で画料を出し合ったのにとレンブラントを非難したという。
しかも、画面中央にはメンバーではない謎の女性を描く始末。その後、レンブラントへの集団肖像画の注文は激減していった。
その後の転落人生
絶頂だったレンブラントはその後、転落の人生を歩むことになる。一つにレンブラントの浪費癖が災いした。絵を描いてお金を稼いでも絵画や骨董の収集に使ってしまい、さらに多額のローンを組んで超豪邸まで購入してしまうという始末。
最愛のサスキアを失い借金地獄に
「夜警」を描いたその年に最愛の妻、サスキアが亡くなり、その後遺児の世話役に雇った乳母と愛人関係になり、訴えられるという状況に。さらに豪邸のローンが払えず借金地獄に陥り、ついには破産となり、家もコレクションも全て手放すことになってしまう。
ドン底にありながら絵には深みが増していく
転落によってレンブラントはドン底の生活を強いられるのだが、そうなればなるほど、彼の絵には深みが増してく。
そのような状況にあっても創作意欲は衰えず、肖像画や自画像では人物の内面が溢れ出すしみじみとした味わいが出てくる。
人物そのものから光が発行するような温かみのある明暗表現が見られ、また、対象を素早いタッチで描く表現も増え、内面表現をさらに進化させていったのだ。
「放蕩息子の帰還」では財産を使い果たして帰還した息子を父親が優しく迎え入れる場面が描かれている。もとは聖書に出てくる場面を描いたものだが、息子の状況はレンブラントそのものである。ドン底にある自身の境遇を、それでも温かく希望を持って描くレンブラントに脱帽するばかりである。
近代的で新しい芸術を創造
財産も家も最愛の妻も愛人も息子も失い、失意のうちに63歳の生涯を閉じたレンブラント。
死の数年後にレンブラントの荒く素早いタッチや厚塗りの表現は評判を呼び、メディチ家当主のトスカーナ大公がレンブラントの作品を買い上げている。
レンブラントの転落人生は自身が引き起こした自業自得といえるものだが、内面が滲み出るような深遠な表現は、そのような状況に陥ったがゆえに到達したレンブラントの精神性そのものといえる。
絵画に写実以上の造形性をもたらしたレンブラントは、後の画家に大きな影響を与え、それ故、近代の画家の先駆けといえる。