仙崖義梵(せんがいぎぼん)という禅僧をご存知だろうか?博多の由緒ある禅寺で住職をしていた僧侶なのだが、殴り書きのような墨画を多く描き、その大半はゆるゆるで癒し系、いわゆる「ゆるキャラ」なのだ。
中には「○と△と□」だけの画もあったりと自由奔放が彼の魅力だ。そんな仙崖のゆるゆるワールドに迫ってみたい。
仙崖は1750年、美濃国に生まれた。11歳で僧侶になり、39歳の時博多の聖福寺の住職を務めた。この聖福寺は日本臨済禅の開祖、栄西によって建立された由緒あるお寺で、日本最初の禅道場とされる。そのようなお寺の第123代住職を20年も務めた仙崖だが、同時に多くの書画を残しており、その多くはユーモアと軽妙性に溢れている。
「指月布袋画賛」
「指月布袋画賛」は中国の仏僧であった布袋を描いたものだが、大きな袋を抱えた太鼓腹の布袋は日本の七福神にも登場するなどお馴染みである。この画では布袋と子供が戯れあっているように見えるが、実はここでは禅の奥深さが表されている。
讃には「を月様幾ツ、十三七ツ」と書かれていて、月は完全なる悟りの境地を表し、指はそれに到るための経典を意味する。実際に月は描かれていないが、そこがミソで、経典を読んでも悟りには到達できず、厳しい修行が必要と言いたいのだ。仙崖流のユーモアを交えた禅レッスンだ。
「坐禅蛙画賛」
「坐禅蛙画賛」では一匹のカエルが描かれている。そのゆるゆるの筆遣いが仙崖の特質を表しているが、実は意外と意味深い。讃には「坐禅して人か佛になるならハ(ば)」とある。
形式的に座禅をしていても悟りの境地には至らないことを示しており、座禅だけならカエルでもできるぞ、と言いたいのだろう。描かれたカエルは一般的なカエルの姿からは程遠く、カエルだって形式的に描いてはいけないという仙崖の教えが込められているように見える。
「一円相画賛」
禅の世界において「丸」は完全なる悟りの境地を表すとされ、禅画では円相がよく描かれる。しかし、ここでも仙崖独特のユーモアが溢れている。讃には「これくふて茶のめ」(これを食ってお茶でも飲みな)と添えられている。もちろんここでいう「これ」とは丸い形をした饅頭であろう。禅の世界では一瞬、一瞬が悟りへの修行となる。日頃の掃除や農作物の世話など、全ての行いが修行そのものであり、それは饅頭を食べる時でも変わらないという意味。
「犬図」
これぞ仙崖というゆるゆるの脱力系作品だ。かろうじて犬の形をしているが、下手するとブタだ。紐に縛られた犬を描くが、添えられた言葉が「きゃふんきゃふん」と、もうまともな讃を書く気がない。
しかし、ここまで見てきたように、仙崖の禅画には必ず深い意味が込められているので、ここでも裏の裏まで読み込んでみると意外と面白いかもしれない。縛られている紐の先には経典が結び付けられていて「きゃふん」と悲鳴をあげている。頭でっかちになって悟りとは正反対に向かう禅僧たちへ「ぎゃふん」と一発喝をお見舞いしたかったのかも。
「○△□」
仙崖の禅画で最も難解で、最も多くの解釈がなされてきた画である。「○」と「△」と「□」のみを描き、左には「扶桑最初禅窟(日本最古の禅寺)」と記されている。「○」が象徴する完全な悟りの境地を示すとか、この世の存在を3つの図形で表し、大宇宙を象徴するとか、色々な説がある。
しかし、ここまでくると、もうそういう考え自体が仙崖にとって悟りとは程遠い世界なんだと警鐘を鳴らしているかのようだ。
「純粋に「○」「△」「□」お終い、よし。」で良いのではないだろうか。きっと仙崖も「○△□」以外の意味なんてないよと言っているのだろう。
仙崖はその自由奔放な画風が特徴だが、その魅力にいち早く気づいたのが出光興産の創業者、出光佐三である。現在彼のコレクションを展示する出光美術館は数多くの仙崖作品を所蔵している。2020年はちょうど仙厓生誕270年の節目でもある。改めて仙崖の禅画で癒されるのも良いだろう。