歌川広重は葛飾北斎と並ぶ、浮世絵界のスーパースターであり、海外でもその人気は非常に高い。西洋の遠近法を取り入れた広重独自の構図は江戸庶民に爆発的にヒットし、それは海外でも同じであった。
後期印象派のゴッホは熱心に浮世絵を収集し、広重の浮世絵を模写した作品も残している。そんな世界的に評価の高い広重の画業に迫る。
若手時代は様々なジャンルの浮世絵を制作
歌川広重は1797年、定火消同心(江戸城の防火担当の武士)の家に生まれる。15歳で当時人気だった歌川豊国に入門しようとするが満員を理由に断られ、同じ門の歌川豊広に入門。広重は師から詩情豊かな美意識を受け継ぐことになる。
若い時はとにかく、様々なジャンルの浮世絵を描き、美人画や役者絵などを精力的に描いていく。
風景画に開眼
広重の転機となったのが1831年に発表された「東都名所」である。西洋画の透視図法を自然な形で取り込み、遠近の対比やトリミングなど独自の画面構成が受けて人気を博した。
また、この頃から取り入れ始めたのが、西洋から輸入されたプルシアン・ブルーの顔料。通称「ベルリン藍」で略して「ベロ藍」だ。ベロ藍は特に空や川、海などに使われた。ぼかし摺りなどにより空気感や光彩を効果的に表現している。
「東海道五十三次」で人気は不動のものに
そして、名所絵の傑作「東海道五十三次之内」が1833年から発表されると広重の人気は絶頂となる。ここでは東海道の宿場町に日本橋と京を加え55枚の揃いものとした。宿場町の名所はもちろんのこと端正な画面構成と日本の四季を巧みに織りこんだ叙情的な作風が特徴だ。ちょうど2年前に北斎の「冨嶽三十六景」が発表されたことも、広重には追い風となった。
「東海道五十三次之内 蒲原 夜の雪」では、深々と積もる夜の雪景色を叙情性豊かに描き上げている。これはまるで宿場町という特定の場所を超えた日本の原風景を想起させる。広重はそんな情感豊な風景画へと昇華させているのだ。
その後は「木曽街道六拾九次之内」や「東都名所」など名所絵の傑作を次々と発表していく。また、狂歌本への挿絵などは広重の狂歌師との交流を示すもので、そうした交流から教養を身につけていったといえる。
縦構図の大胆な作品で新境地に
晩年に入り、広重の作風に変化が見られるようになる。縦構図の画面、いわゆる竪絵(たてえ)が多くなるのだ。一般的に風景画で竪構図だと上部が空いてしまうため、構図が難しいのだが、広重は俯瞰図を取り入れたり、近景モチーフを拡大させたりと大胆な構図を編み出していく。
「名所江戸百景 亀戸梅屋舗 」
「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」では近景に臥竜梅(がりょうばい)の名木を大胆に配し、遠景に人物やその他の要素を描きこんでいる。古木もグラデーションと摺りの木目を生かし質感がうまく表現できている。夕景の赤と野原の緑が補色で見るものを惹きつける。
この絵を模写したのが、誰あろうゴッホである。「花咲く梅の木(広重を模して)」では大胆な構図や色彩など、西洋にはない浮世絵の魅力にいち早く気付いていた証拠が見られる。
美人画で成功した広重は、名所の風景画が大ヒットしその人気を不動のものとする。しかし、広重の偉大さは、年老いて尚も自身のスタイルを壊し、全く新しい表現に挑戦する点にある。広重の叙情的で気品あふれる画面構成はやはり日本の美意識に根付いたものだろう。広重が海外で評価される理由もここにあるのだ。