浮世絵は江戸時代、庶民の間で爆発的に人気を博した娯楽で、今でこそ美術館や博物館で展示され鑑賞の対象となっているが、江戸時代の当時は安く手に入る出版物という認識だった。しかし、その浮世絵が19世紀後半にヨーロッパでジャポニズムの追い風とともに、モネやゴッホら印象派の画家たちに多大な影響を与えた。そんな浮世絵の創始者ともいわれる菱川師宣とは一体どんな人物なのか。
師宣、千葉の田舎から江戸に出る
菱川師宣の生年月日は不明だが、出身は安房国(現在の千葉県南房総地域)の保田(ほた)である。幼少期より絵を好み、青年期に江戸に出て狩野派などの絵を独学で学んでいったという。江戸初期の庶民は娯楽に飢え、この時期に登場した木版印刷による版本は安くて早く手に入る印刷物として人気を博し、それにいち早く応えたのが菱川師宣だったのである。
挿絵を飛躍的に高める
師宣は吉原遊廓や遊女、役者評判記、名所案内記、美人絵など多種多様な版本を出版しその圧倒的なレパートリーの広さが人気の理由である。その当時の版本は文章がメインで挿絵はあくまで補助的な役割しかなかったのだが、師宣の挿絵は文章よりもはるかに大きく、挿絵が主役となる革新的なものだった。おおらかな線描で男性の躍動感や女性の優美性を描く師宣の独自性は当時から人気が高かった。
代表作「見返り美人図」を描く
師宣が代表作「見返り美人図」を描いたのは元禄前期(1688〜1704)であり、これは版画ではなく、絵筆で描かれたという意味で肉筆画と呼ばれる。この肉筆画も多く制作し、掛け軸や屏風、絵巻など精力的に描いている。そこに描かれていたのは芝居小屋や花見、盆踊りなど江戸庶民の風俗であった。
師宣の圧倒的な仕事量は決して一人で成し遂げられたものではなく、工房を構えた上での分業、あるいは共同作業によるものとされる。しかし、師宣が確立した浮世絵はその後、様々な絵師に受け継がれ、今や日本を代表する芸術へと進化していった。