どのような絵巻か?
信貴山縁起絵巻は、源氏物語絵巻、伴大納言絵巻、鳥獣人物戯画とともに、四大絵巻に数えられ、優れた仏教説話として昭和26年に国宝に指定されています。
信貴山縁起絵巻の内容
この絵巻は信貴山(大阪に隣接する奈良県北西部)にある朝護孫子寺に伝わるもので、寺の中興の祖・命蓮上人(みょうれんしょうにん)にまつわる説話をもとに描かれています。
表現の特徴
その特徴は、柔軟な線描や変化に富む人物表現など、やまと絵の技法を駆使した卓越した表現にあり「線の芸術」や「動的絵巻の傑作」と評されています。また、絵巻には当時の一般庶民が描かれており、当時の庶民風俗を知る上での資料的価値も高いとされています。
また、視点をダイナミックに変化させながら縦横無尽に場面展開する構成など現代のアニメーションに通じる面があります。
物語そのものは古いむかし話ですが、そこに描かれた人物の動きや表情、効果的な風景表現、次々に起こる事象の表現と内容は現代人の心をとらえてやみませんし、ストーリーを目で追ってゆくうちに、知らぬ間にその世界に引きこまれてしまいます。そこには奇想天外な描写、絵師がつくり出す時間の推移や空間の変化のドラマがあり、今日のアニメーションやマンガに共通する面白さがあります。
「信貴山縁起繪」秋山光和 丸善株式会社出版事業部
制作背景
制作時期に関しては12世紀後半、平安時代後期の作とされます。作者は不明ですが、金や銀、群青など当時の高価な顔料を用いるなど多くの絵巻の制作に関わった後白河法皇周辺の宮廷絵師という説があります。
信貴山縁起絵巻の構成
絵巻は「山崎長者(やまざきちょうじゃ)の巻(飛倉(とびくら)の巻)」「延喜加持(えんぎかじ)の巻」「尼公(あまぎみ)の巻」の三巻からなり、全長35mにもなる絵巻は命蓮上人の奇跡譚(人知を超えた不思議な話)を伝えています。
第一巻の「山崎長者の巻」は全16紙(827cm)で構成されていて、詞書はありませんが「宇治拾遺物語」に同様の記載があり内容を確認できます。命蓮が神通力を使って、山崎長者のもとに鉢を飛ばし、その鉢に倉が乗り、倉ごと米俵を信貴山にいる命蓮の所まで飛ばしたという奇跡譚です。
第二巻の「延喜加持の巻」は全24紙(1270cm)で構成。第一紙から第三紙までは詞書です。 第一紙冒頭の五行には、第一巻「山崎長者の巻」の後半場面の説明が書かれています。命蓮の加持祈祷の力で醍醐天皇の病が治るという内容で、剣の護法童子が空を飛び、転輪聖王の金輪を転がして、天皇のいる清涼殿に現れる様が描かれています。
第三巻の「尼公の巻」は全26紙(1416cm)。全三巻の中で最も長くなっており、 第一紙と第二紙は詞書で始まります。命蓮の生まれた信濃国から姉の尼公が信貴山まではるばるやって来る場面や、東大寺大仏前で祈りまどろむ尼公の姿を様々に描く異時同図法などが登場します。
「山崎長者の巻(飛倉の巻)」
信貴山にある朝護孫子寺を再興した僧、命蓮は信濃の出身で東大寺で修行をし、その後、信貴山に移って毘沙門天を祀るお堂を建てさらに修行に励んでいました。
山の麓には長者がいて、命蓮上人は托鉢(僧が念仏を唱えて回り、金銭や米の施しを受けること)のため、そこへ鉢を飛ばしていましたが、長者は度重なる托鉢を嫌って、米倉に鉢を閉じ込めてしまいました。
絵巻はこの場面から始まります。倉がゆらゆらと揺れ始めたかと思うと、倉が浮き上がり、中から出てきた鉢が倉を乗せてそのまま山の彼方へ飛び立ってしまいました。人々は慌てふためいてそれを追いかけます。長者も従者と共に後を追いかけ、辿り着いた信貴山の命蓮に向かって、倉を返すよう懇願します。
しかし、命蓮は倉を返すことはできないが、その代わり倉のなかにある米俵は返すと約束し、鉢の上に米俵を一つ乗せるよう指示をします。すると米俵が列をなして飛び立ち、長者宅へと戻っていきました。それを見た女房たちが驚き喜ぶ様子で締めくくられています。
このような飛鉢伝説などは仏教説話として他にもいくつか作られていたようです。
この飛鉢法は千手観音の秘法として知られており、平安時代には観音と同体とされた毘沙門天と米にまつわる仏教説話も作られた。
「国宝 信貴山縁起絵巻 朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝展」奈良国立博物館
「延喜加持の巻」
命蓮が修行に励んでいる時、都では帝(醍醐天皇)が重い病に苦しんでいました。さまざまな祈祷を受けましたが全く効き目がなく、不思議な法力を使う命蓮に白羽の矢が立ちます。絵巻はこの場面から始まり、帝の使者である蔵人が信貴山へ向かって内裏の東門をまさに出ようとする情景が描かれています。
勅使一行が命蓮に帝の病の平癒を依頼しますが、命蓮は信貴山にいながらにして祈祷するといいます。そして帝の病が癒える時に「剣の護法」という童子を遣わすと約束します。
それから3日ほど経って、帝が夢うつつでまどろんでいる時、きらりと光る剣の護法が現れます。このクライマックスシーンでは右手と背中に多数の剣を持つ剣の護法が仏法の力の象徴である輪宝を回し、颯爽と登場します。雲脚の流れや童子の表情にスピード感と緊張感があり法力の威力を余すことなく伝えています。
童子が帝の枕元に立つと帝の病気は全快します。帝は喜び、命蓮に荘園などを授けようと使者を送りますが、命蓮は「荘園などを得ると、管理人を置かなければならず、仏罰に当たりかねない」と言って断ったとされます。
「尼公の巻」
命蓮には故郷信濃に姉の尼公がおり、修行で東大寺に行ったきり20年も会っていませんでした。尼公は命蓮に一目会いたいと従者を連れて奈良を目指し旅に出ます。
しかし消息はつかめず東大寺の前で一夜、祈り続けますが、やがてうとうととまどろんでしまいます。すると夢の中で「未申(南西)の方に紫の雲のたなびく山がある。そこを訪ねてみよ」という声が聞こえてきます。
絵巻では大仏に向かって拝んだり祈ったり、夢想したりする尼公の姿が同じ場面にいくつも描かれており、異なる時間を異時同図法で表現していることがわかります。
お告げを聞いて嬉しくなった尼公は信貴山に向かって歩き始め、ようやく念願の再会を果たすことができました。尼公は持ってきた衲(たい)と呼ばれる僧衣を渡し命蓮は喜んでそれを着ました。
姉の尼公は信濃へ帰らず、命蓮とともに仏に仕える生活を送りました。衲はやがてボロボロになり、飛倉に納められていましたが、人々はその衲の切れ端を求めお守りにしました。
飛倉も時が経ち朽ちてしまいましたが、朽ちた倉の木片で毘沙門天の像を刻むと福が訪れるという噂がたち、それが毘沙門天信仰となりました。
信貴山縁起絵巻の歴史的価値
信貴山縁起絵巻では庶民の姿がありのままに描かれており、当時の庶民生活や風俗を知ることができます。また、東大寺が建てられた当時の姿を知る上でも大変貴重であるとされます。
ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちの際に焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の資料であり、道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗など、当時の庶民の生活が伺え、民俗的資料としての価値も高い。
「国宝 紙本著色 信貴山縁起[信貴山縁起絵巻平群町ウェブサイト
信貴山縁起絵巻が伝わる朝護孫子寺とは?
朝護孫子寺は、奈良県(大和国)と大阪府南東部(河内国)の境にそびえる生駒山地の南端に近い、奈良県側の信貴山の山腹に位置します。寺が建つ信貴山に関しては次のように説明されています。
今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
「朝護孫子寺とは」信貴山真言宗 総本山 朝護孫子寺 公式サイト
境内の至るところに張り子の虎が置かれているのはそのような逸話があるためです。また、信貴山は毘沙門天が最初に出現した場所で、本堂には本尊となる毘沙門天王像の他に善膩師童子像や吉祥天像など、信貴山三像が安置されています。
重要文化財の金銅鉢は銅板を打ち出して成形し、鍍金を施した仏前供養用の鉢です。延長7年(929)に寛運が聖徳太子の宝前に施入したことがわかっていて、信貴山における聖徳太子信仰を考える上で大変重要です。
また、この復興を命蓮上人が主導していたことから、後世の飛鉢譚との関係が指摘されています。
参考文献
躍動する絵に舌を巻く 信貴山縁起絵巻 (アートセレクション)
日本の絵巻 (4) 信貴山縁起
名宝日本の美術〈第11巻〉信貴山縁起絵巻 (1982年)
日本の絵巻―コンパクト版 (4) 信貴山縁起